・2000年7月 総選挙の前哨戦と言われたバンコク知事選でタイ・ラック・タイ党が擁立したスダーラット・ゲーユラパン女史が敗れるも、清廉潔白・清新な党としてのイメージを広め、その後の大躍進に繋げることに。しかし過去のスタンドプレイ体質を知っているマスコミは懐疑的。 ・2000年9月 資産隠し疑惑が発覚。 ・2000年11月 下院解散。当時の世論調査では農民・貧困者政策を全面に打ち出したタイ・ラック・タイ党と実績の民主党との間で熾烈な選挙戦が展開されるも、タクシン前首相の資産隠し疑惑に対する判断如何では混迷もあり得ると予想。 ・2000年12月 国家汚職防止取締委員会がタクシン前首相の資産隠し疑惑をクロ裁定。憲法裁判所に公職追放を求め告訴する方針を決定。1997年に資産報告書を提出した際に、個人付きの運転手や家のメイド等に資産名義を書き換え資産を隠匿したと判断。そのときのタクシン前首相の有名な発言は、「意図したものではない。正直に間違えた。」。その後「正直に間違えた」が俄に流行語に。直後に行われた世論調査ではタイ・ラック・タイ党の支持率が一気に低下し第四位にまで落ち込む。しかし僅か一ヶ月弱後に行われた総選挙で第一党を獲得することに。尚、正式な告訴は2001年1月に行われた。 ・2001年1月 30バーツ一律診療政策や、農民の借金の向こう3年間の猶予政策、全村に100万バーツの再生資金を投下する政策等の大衆政策及び「汚職追放」を全面に掲げ地方層の絶大な支持を集めたタイ・ラック・タイ党が総選挙で圧勝し下院第一党に。しかし、タクシン前首相に対する資産隠し裁判の成り行き次第では政界が再度混迷するとの見方もされる。因みに、選挙違反摘発件数でもタイ・ラック・タイ党が一位。皮肉な事に清廉を全面に打ち出したタイ・ラック・タイ党に対して、マスコミは「資金」のタイ・ラック・タイ vs 「清廉」の民主党の図式で選挙を捉える。最終的に248議席と、僅かに過半数には届かなかった。 ・2001年2月 新希望党・チャート・タイ党等と連立し下院内で325席を確保し第一次タクシン内閣が発足。マスコミからは、タクシン前首相の独善的な発言力を確保する為の閣僚人事である。公約に掲げた汚職追放、党派主義・ネポティズムの否定と矛盾する等の指摘が出される。 ・2001年2月 14議席を確保していたセーリータム党を吸収合併しタイ・ラック・タイ党が単独過半数を確保。 ・2001年2月 タクシン前首相による報道への介入を非難する声明を発表したシン社系のiTVの労組関係者33人が解雇。 ・2001年2月 ミャンマー政策に関して、従来の欧米路線追随型を改め独自に外交関係を築き上げる方針を決定。その後、シン社系の携帯事業会社がミャンマー国内の携帯電話網の整備を受注するなど、身内への利益誘導疑惑が浮上することに。 ・2001年3月 タクシン前首相が搭乗予定だったTG便で爆発が発生し、TGの乗組員1人が死亡。当初はC4爆弾が使用されたと報じられ(当時のチャワリット防衛大臣が追認)麻薬組織やタクシン政権によって利益機会を喪失したグループによる暗殺未遂説が指摘されたが、その後当局側はC4爆弾使用説の否定に躍起になり、最終的に事故でかたづけられた。 ・2001年3月 麻薬撲滅戦争政策を発表。その後、権力側による大量虐殺疑惑を生むことに。また、ガラーシン県内では県知事自らの指揮の下で麻薬密売・使用容疑者に対する大量殺人が行われた疑惑が明るみになり、マスコミは「恐怖政治」的手法で麻薬を取り締まっていると非難。また、政権側は麻薬関連の死刑を公開で行う方針を明らかにするが、僅か1回で中止。 ・2001年4月 ハート・ヤイ駅を始め南部で散発的に爆破事件が発生した事を受け、分離主義組織壊滅に乗り出すと宣言。 ・2001年5月 低金利政策の見直しを巡った対立からヂャトゥモンコン中銀総裁を解任、後任にヂャトゥモンコン氏の従兄弟のタイ輸出入銀行総裁のプリディヤトーン・テーワグン氏を据える。国王が利害の対立は国に災いをもたらすと苦言を呈す。 ・2001年6月 新希望党を吸収合併し293議席を確保。 ・2001年7月 良質な旅行者優先政策を打ち出す。官権によるマスコミ弾圧が激化し始めたのもこの頃。 ・2001年8月 憲法裁判所は僅差で資産隠し疑惑に対してシロの裁定を下す。因みに裁判長はクロの判断。同日午前に同じ疑惑で告訴されていたタイ・ラック・タイ党幹部に対して5年間の公職追放の裁定が下されていたことから、法のバランスを欠いた世論(支持率)に配慮した政治的な判断が働いた判決との見方がされる。マスコミは皮肉混じりに「歴史的判決」と報じる。しかし、2007年に下されたタイ・ラック・タイ党に対する解党判断に対して不当な裁定だと訴えている同党幹部の口から、このシロ裁定に対して法の正義を持ち出して不当な判決だという声は聞かれなかった。その後、複数の判事に対する買収疑惑が浮上することに。この判決後、これまで、目に見える成果を上げることが出来る政策の施行に注力していたタクシン前首相が豹変し独裁指向が明確になる。裁定直後に支持率を10%近く下げるが、それでも60%強の支持率を確保。 ・2001年8月 日タイ間の長年に渡る友好関係に配慮し、靖国問題に介入しない意向を表明。 ・2001年9月 政策を巡り対立していた商務省次官のグルックグライ・ヂーラペート氏(現商務大臣)を電撃更迭。 ・2001年9月 同時多発テロの発生を受けテロとの戦いへの参加を表明。10月にはタイ観光庁がが南部国境三県への観光自粛を勧告。 ・2001年12月 国王が誕生日スピーチの中でタクシン前首相の独裁体質と政権のダブルスタンダート運用に苦言を呈する。 ・2001年12月 チャート・パッタナー党が連立入り。 つづく
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